流鏑馬の
馬の背で見る
富士の山
へんぽらい
練行のコース最終部分は富士登山道です。神田川沿いに進むと、前方すこし右手に富士山が姿を現します。今年の空の晴れ具合はやっぱり特別でした。
馬酔い注意(笑)
流鏑馬の
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富士の山
へんぽらい
練行のコース最終部分は富士登山道です。神田川沿いに進むと、前方すこし右手に富士山が姿を現します。今年の空の晴れ具合はやっぱり特別でした。
馬酔い注意(笑)
3月21日に浅間大社に所用で出かけたところ寒桜が見事に咲いていた。

ここだけ見たらまさしく爛漫の春だ。
しかしソメイヨシノはまだつぼみも堅く、卒業に桜というイメージは少なくとも
富士宮市ではあたらない。

例年富士宮市での桜の盛期は3月末から4月の初め。
だから卒業には間に合わず、入学には散り始めるくらいだ。
この年になっても鮮やかに思い出すのは、散り始めた桜の下を母親に手を引かれ小学校の入学式に向かったことだ。

今日現在の浅間大社馬場の様子だ。
"桜の馬場"と呼ばれる境内東西に走る道は、流鏑馬にはまさしく馬が走る馬場となる。馬場の両側には桜が植えられ、盛期には見事な眺めを見せてくれる。

これが桜の盛りだ。
裸の木々が一斉に花をまとう。
沈滞の静から一気に萌え動き始める。
もの皆全てが動き始める始まりの春だ。
もう少し、もう少しで全てが始まる。
今は期待してそれを待つ。
本日は葬儀に参列。
姉の義妹のお舅さんが亡くなったのだが、倒れてから一月あまりが経ったとの事。看病されたご家族のご苦労に、ねぎらいの言葉を贈りたい。
惜しい事でしたが、お疲れ様でした。
聞けば、私が盲腸を切った頃同じ病院に入院されていたとの事だったが、病棟も違えば接点もないか。
ふと思い出すのは、C型肝炎から肝癌になり最後は肺に転移して亡くなった叔母の事だ。
容態の急変は平成13年の今時分だった。
末期癌はすでに肺へ転移していた。叔母の友人が家族に言うには、ご主人の癌は肺に転移した後一月ぐらいしかもたなかったのこと。だから覚悟はしていた。
放射線治療をするかどうかを聞かれていたが、叔母の意思でしない事をその日返事したばかりだった。
家に帰ったら、叔母の友人から病状を問う電話があり母が応対していた。心配してくれての事だからありがたい事ではあるが、電話があまりにも長い。実はこの時、叔母の病状は急変していた。あまりにも電話が通じないために病院から向かいの接骨院に電話がかかり、奥さんが走って取り次いでくれた。いくら心配だからと言っても、こんな状況では長電話は厳に控えるべきだな。
病院に駈けつけると医師に聞かれた。
「脳圧が上がり、危険な状態です。
このまま置けば、当人は苦痛を感じる事なく逝けるでしょうが、どうしますか?」
その時思ったのは、何もしないで逝かせたら悔いが残るということ。
出来る事は脳圧を下げる事だけだというので、その処置をお願いした。
それから後も意識は戻らないままだったが、息苦しさからか酸素マスクを何度も外そうとするなど、数日間苦しむ様を見せつけられた。
病床で誕生日を迎え、深夜日が変わって間もなく息を引き取った。

3月初旬の浅間大社の寒桜が咲く頃の事だ。
後で思う事だが、「悔いが残るから」と言う家族の勝手な都合や判断で、回復の望みのない患者の苦痛をただ長引かせただけでは無かったろうか。
今日の葬儀帰りに姉とそんな話をして、
「おばちゃん恨んでるかな?」
と言ったら。
「恨みはしないよ。感謝しているさ。」
と言ってもらえた。
実は、今回の盲腸手術も同じ病院だから、入院中夢に叔母が出てきて恨み事など言われるのではと、ひそかに心配していたものだ。父もこの病院で4年前の1月に亡くなっている。この時期の入院手術に少し迷ったのもこのためだ。
幸い夢も見ずに退院できたのは、どちらも無事に成仏できたからなのだろうか。
今日その話をしたら、母は笑ってこう言った。
「私の時は楽に死なせてね。」
私もそうなったらそう願いたいところだが、ひそかに叔母の苦痛を長引かせた報いが私にはあるんじゃないかと思っている。
でもその時はその時。
なるようになるさ。
昨日は定例の囃子練習だった。

浅間大社の境内参拝者休憩所をお借りして毎月2日間お囃子の練習をしている。
浅間大社青年会囃子同好会のご協力を得て、合同練習と言う形を取り市内の祭典実施区より希望者が集う。

浅間大社楼門内はバリアフリー工事ということで、石畳や歩道を広げるための工事中だ。
3月末日までが予定されている。桜の開花前には完了して欲しいものだ。

これは拝殿西にある寒桜。早い年には節分過ぎくらいから咲き始め、2月下旬の囃子練習にはかなり咲いていたものだが、今年は開花が遅いようだ。それでもようやくつぼみが膨らんだので開花は秒読みかな。
囃子の練習が終わってから”やまさく”でいつもの歓談。
他愛もない話で楽しむのがいつもの事だが、その中で”非を認めない若者”の話が出た。
助言や注意に反発し逆ギレする。自分の非は絶対に認めない。そんな例には私も遭遇した事がある。自分は悪くないの一点張りで、聞く耳を持たぬ姿に世代間ギャップを通り越して唖然としたものだ。
どうしてこんなになったのだろう?
あやまればつけ込まれて不利になるという、どこかの国の考え方なのか?
やっぱり大きいのは、身近な家族などの影響つまりは家庭の問題なのだろう。
まさか学校で教えては居ないだろうと思いながら、昔聞いたフォークソングを思い出した。
”学校で何を習ったの”と言う歌だ。
高石ともやの歌があるのでご紹介する。
あの頃のフォークが聞きたいより歌詞を引用する。
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学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
ワシントンは嘘はつかないと
兵隊はめったに死なないものと
誰も 彼もが自由だと 先生が僕に話してくれた
学枚で今日習ったよ そういうふうに習ったよ
学校で何を習ったの 司愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
お巡りさんは僕の友達で 正義は決してほろびはしない
殺人した人 罪で死ぬ 時々まちがいはあるけれと
学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
僕らの政府は強くって そしていつでも正しくて
議員は立派な人達だから 選挙のたびに同じ人選ぶ
学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
戦争はそれほど悪くはないと フランスやドイツで戦って
アメリカ軍は負けたことがない そのうち僕らも戦えるんだ
学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ
-----------------------------------
元はトム・パクストンの歌。
誰がしつけたものか知らないが、せめて”ワシントンは嘘をつかない”という”正直の美徳”は忘れずに教えて欲しい。
人として大事な事だから。
参考
平成24年2月19日午後5時よりコラボにて、富士宮市立富士宮第二中学校創立65周年記念年次代表者同窓会が行われた。

亀山副会長による開会のことば。

日向会長あいさつ。

先だって校内に建立された校歌石碑の目録贈呈。

校歌が出来る前には応援歌が歌われていたと言うことで、大先輩方が披露して下さった。
そして校歌の合唱だ。
富士宮第二中学校校歌
作詞 金田一京助
作曲 市川都志春
一
富士の嶺(ね)の 高き姿を
朝夕に まどべにあおぐ
めぐまれし 我が学園(まなびや)は
富士宮 第二中学校
二
れいろうの 玉の装いは
あおぎみる こころの鑑(かがみ)
ゆるぎなき 不壊(ふえ)の姿は
行く末の 母校の教訓(おしえ)
三
麗わしき この地城山に
手をむつび われらは学ぶ
すこやかに 清く正しく
いざ共に 第二中学校
国語学者金田一京助氏の作詞
二部合唱の校歌というのはなかなかユニークだ。
点滴逆流の不安もあって、殆どを病室のベッドで過ごした。
携帯電話の使用については、電話は公衆電話の場所でかけると言うことだが、メールは病室からでも良いとのこと。要するに、声を出さなければ病室でスマホを使用しても良いと言うことらしい。
で、家内にiPadを持ってきてもらったので、退屈することもなかった。
インターネットでニュースなど見ながら、構想から遅々として進まぬ物語の肉付け、誤って初期化し上書きしてしまったデータの救出方法、そんなことを考えていた。
昨年暮れ、メモリーカードを初期化のみならず上書きまでしてしまった。保存が済んだという勘違いからだ。PC内をくまなく探し回って未保存のままの誤消去を確信したものの、大きなミスに一気に血の気のひく思いがした。消えたものは取り返せない。腹をくくってお詫びと撮り直しのお願いをして回った。
しかし大勢の家族で写った宮参りの記念撮影は、取り返しようのない貴重な”時の記憶”だ。これだけでも何とか救えないかと思った。
PCショップの広告でデータ復旧と言う文字を見た時、電話してみた。初期化した上に上書き間でしたものでも、まだ救出の可能性はあるとのこと。すがる思いでメモリーカードを持ち込んでみたが、結果はすでに保存済みの不要なJPEGデータが掘り出せただけだった。
でも待てよ?あのJPEGデータとは同時にRAWデータファイルが記録されているはず。RAWデータファイルの救出をうたう業者なら、掘り出せるかも知れない。
iPadで検索すると業者も見つかったが、ソフトも見つかった。
ソフトはダウンロードでも入手できる。よし、退院したら試してみようと決めた。
手術前に気になっていたのがその時期だ。叔母が亡くなったのが3月、父が1月。似たような時期に入院することに少なからず不安があった。
仏壇に手を合わせることも滅多にない親不孝者だ。叔母や父が文句を言いに夢に出てくるんじゃないかと思っていたが、とうとう夢も見なかった。
どうやら無事に成仏できたのかな。
手術後の経過は至って順調で、予定より1日早く退院できたのはなによりだ。

手術は2月9日。
朝から食事はなく点滴がそれに代わる。
手術着に着替え、手術室入りは9時15分。点滴スタンドを押しながらの入室。
「昨日は眠れましたか?」と尋ねられたが、前日はすることもなく昼間からベッドでうとうとしていたので、夜はぐっすりとは行かなかったな。
麻酔を脊椎に注射する際、尻にビビッと痛みが走った。神経に障ったらしい。
麻酔が効くと触る感じはしても痛みや熱さ冷たさは感じないとのこと。 麻酔が効いたのを確かめて、やがて手術が始まった。
見えても気にはならないのだが、不安を抱いてもということか首のあたりに布を垂らした目隠しをされてしまった。多分見えてもそれが原因で気持ちが悪くなることもなかっただろう。できれば自分で写真を撮りたいぐらいだったのだが、言えるわけがない。でも手術灯のライトのガラスに映るのが見えていたので、じっとそれを見ていた。
「見えますか?」と聞かれたので、「ガラスに映ってるので」と返事。「大丈夫ですか?」には「大丈夫です。」と答えた。
見えるとは言っても範囲は限られるし、映りも小さい。おまけに眼鏡を外しているのでぼんやりとだ。
手術で内臓を引っ張られる感じが強いと思ったら急に気分が悪くなった。
「大丈夫ですか!」と看護師さんが声をかける。急に血圧が下がり、顔色が青ざめたのが判ったのだろう。
「迷走神経のショックか」男性看護師がつぶやいた。
薬剤が投与され血圧は徐々に上がってきたが、脳貧血のような低血圧の気持ち悪さは最後まで抜けなかった。
手術が終わってもなかなか血圧は正常値にまで上がらず、その間はやっぱり気持ちが悪かった。 その後、血圧を測りながら麻酔がどれだけ覚めたかを繰り返しテストした。 血の気が通常の状態に戻ってきたのは夕刻の事。 麻酔が覚めて歩けるようになり、血栓予防のきついストッキングをようやく脱ぐことが出来た。
まだ食事どころか水もダメ。夕食が配られるのを聴きながら、寝入ってしまった。
検温で目が覚めたのが9時。熱が37.6度あったので点滴に痛み止め(熱冷まし)が加わった。
退院前日の夜まで、点滴のチューブは外れることもなく常に点滴液が交換され、抗生剤も何度か点滴に加わった。 トイレに行くにも、点滴スタンドといつも一緒だった。
嫌だったのは血液の逆流だ。トイレに行って帰るとチューブの中に血液が逆流している。看護師さんに戻してもらったのだが、これが3回もおこるとトイレに出歩く気もしなくなる。よくよく考えると追加の点滴が終わる頃トイレに行くとこの逆流が起こっているのに気付いた。常時点滴されているもの一つなら出歩いても逆流は起きない。ようやく点滴とのつきあい方をおぼえたのは退院間際だった。
手術当日からは点滴が食事替わりで、当日はもちろん翌10日朝も食事はなく、ようやく食事が出たのは昼から。流動食ということで水のような重湯に味付けのかつおみそ、野菜スープの上澄みにオレンジジュースだけだったが、水分がとれるのは本当にありがたかった。
11日には五分粥、12日にようやく全粥になり、この日の昼食を最後に退院した。
辛かったのは手術当日ぐらい。
後は体調も戻り経過も良好だ。
我ながらどうしてああも簡単に返事ができたのか不思議だ。
多分、内なるもう一人の自分が言わしめたのだ。そう思った。
虫垂炎が沈静化してから手術まで3ヶ月半ある。迷わなかったわけでは無い。
この間に二人の友が逝った。 一人は昨夏還暦同窓会の筆頭幹事を務めたF君で、腹部大動脈瘤の破裂だったそうだ。 数年前宮踊り撮影中にばったり会って、「体、気をつけなよ。」と気遣ってもらったのだが、その翌日に彼が脳梗塞で倒れた。そちらは幸い軽快し、昨年の二中同期の還暦同窓会で筆頭幹事を務めるほど元気だったので、訃報が信じられなかったものだ。
もう一人は21年間消防団で同じ釜の飯を食ったY君で、胆管癌だった。彼は5才も若い。 一昨年癌が見つかり危ぶまれたものの、さまざまな療法を試みて驚くほど元気になった。昨年の三分団新年会には元気に顔を見せてくれ、皆で復調を喜んだものだったが晩秋に癌がリンパに入ったのが判り入院。消防団時代の仲間が連れだって、市立病院に見舞ったのが暮れの事だった。
医師に余命を年内と告げられたという。がんばりで新年を迎えることが出来たが、1月8日次男の成人式の日に息を引き取った。
この友に加え、叔母と父もこの市立病院で亡くなっている。叔母が平成13年3月8日肝癌が肺に転移し最後は肺炎で、父が平成20年1月20日糖尿病や狭心症などいろいろ患った末、最後は尿毒症だった。桜咲く春を待てずに逝ったのはどちらも残念だったろう。験を担ぐわけでは無いがちょっと気にならぬでもない。

おまけに手術のことを聞きつけた仲人の叔母が心配して止めろという。痛まないなら切らぬ方が良いという。ごもっとも。でも、あの時内なる私は切るべきだと思ったのだ。今の日本と同じように、深い深い沈滞にずぶずぶと沈んでゆく日常にけりをつける必要を、たぶん感じたのだ。
こじらせての手術では無い。けろっと治り、笑いながら帰ってくるさ。
多少の不安をぬぐい去り入院の日を迎えた。
昨年10月20日に盲腸を発症した。虫垂炎というやつだ。
姪の結婚式、祭り準備に祭り、そして業務の七五三撮影と多忙期を控えており、何でこんな時期にと思ったものだ。 だがしかし翌日受診した外科では、痛みの程度が軽く白血球の数値が前日より大幅に減少していることから炎症が沈静化しているという医師の判断。化膿止めを服用して様子を見ることになった。5日後の検査では正常な値で、炎症はどうやら治まっていた。 とりあえず繁忙期の手術と入院は避けられたものの、いつぶり返すかも判らないと言う不安もある。
「どうします?」
先生が言うには痛みさえしなければ手術の必要も無いしこのままでいいけれど、不安があるようなら切除するのも考えられるとのこと。
「では、仕事が暇になる2月にお願いします。」
いつもは優柔不断な私だが、どう言うわけかきっぱりと、そう返事をしていた。
by kumagera2009
ホタル